史跡としての盟親
京のみやこに右獄(西獄)、左獄(東獄)という獄舎がつくられました。
時代は流れ、宝永3年(西暦1709年)に三条新地牢屋敷六角獄舎として定められた,いわゆる「ろうやしき」のあった史跡が現在の盟親であります。
かねてから実証により人体の内景を確かめたいとの思いを抱いていた医家山脇東洋(京都亀岡住)は,宝歴4年(1754)閏2月7日京都所司代酒井忠用の公認を得て,この地六角獄舎前で男の刑死体について日本最初の解剖を行いました。
「解体新書」で知られる前野良沢,杉田玄白らの江戸千住小塚原での解剖より17年前のことです。
東洋は,その時の所見等をまとめた「蔵志」2冊を宝歴9年(1759)に出版しました。
平野國臣他勤皇志士殉難の地
この地は,江戸時代に「六角獄舎」があったところ。安政の大獄の後は多くの政治犯が収容されていました。
元治元年(1864年)の「蛤御門の変」の際には,平野國臣ら勤王志士30数名が,幕吏によって斬られました。 平野国臣はもと福岡藩士で,尊皇攘夷運動に参加して脱藩し,生野の乱に挙兵して捕らえられ,元治元年(1864)1月17日ここに収容されておりました。
ところが同年7月19日禁門の変(蛤御門の変)によって京都市中の大半が兵火に見舞われ,その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや,逃亡を恐れた幕吏は,獄中の国臣ら尊王壤夷派の志士たちを斬ってしまいました。
この難に遭った者は平野國臣のほか,古高俊太郎,長尾郁三郎,水郡善之祐ら三十数名にのぼりました。敷地の一隅には,当時刀などを洗うのに使用したという「首洗井戸」がありました。改築に当たり井戸は埋められましたが,井筒は移築され現存しています。
この六角獄舎は,慶応3年(西暦1867年)に江戸幕府の終焉と共に,その任を終えました。
明治22年(1889年),京都府監獄署小野勝彬典獄らが発起し,京都感化保護院が創設されました。初代理事長は,初代京都市長内貴甚三郎翁でございました。
運営は,東西本願寺様から,年五百円の寄付を頂くと共に,諸氏の義捐を受け,今でいう刑務所を出所したが,帰る場所のない方を引き取り,支援をしてまいりました。
明治30年(1897年),英照皇太后(明治天皇嫡母)ご大葬の際使用された,御用材の御下賜を受け,建物を整備しました。この院舎は「盟親会堂」と名付けられました。明治18年(1885年)、後に京都府知事になられた中井桜洲先生が扁額に揮毫されております。
盟友という,「ちかいあった友」という言葉がございます。盟親とは,「ちかいあった親」「ちかいあった親子」であると受け止め,保護感化・更生保護に邁進し,この理念を後世に伝えるべく,百年を超える星霜を経て今に至っております。
爾来,昭憲皇太后(明治天皇后),大正天皇,昭和天皇,上皇陛下に擱かれましては,ご自身のお誕生日や,特に思召しの際に,御下賜金を賜り,御奨励を戴いております。
明治37年3月1日
設立当初の目的であった感化少年を収容する感化部の事業を開設する。
明治41年1月
府立代用感化院に指定され,神泉学園と称した。
大正2年6月
府立淇陽学校の新設により感化院事業を移譲し,保護部のみ事業継続した。
昭和14年9月14日
司法保護事業法施行により,司法保護団体として認可を受ける。
昭和25年11月24日
更生緊急保護法施行により,新たに更生保護事業経営の許可を受ける。
平成3年5月15日 日本自転車振興会等の補助を受け新築工事が完成し,事業を再開。寮の名称を「盟親」とする。
平成4年7月21日
法人名を財団法人「盟親」に改める。
平成8年4月1日
更生保護事業法施行に伴い,更生保護法人盟親となる。